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橋本聖子の若い頃の経歴や学歴は?出身高校・駒沢大附苫小牧の偏差値は?

今回は、橋本聖子さんの

 

 

小学校~高校までの学歴や

 

若い頃の経歴や画像・動画など

オリンピックでの成績まとめ

 

 

などなど…橋本聖子さんの若い頃や学歴について書きました。

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橋本聖子の学歴は?出身高校・駒沢大学附属苫小牧高校の偏差値は?

橋本聖子さんの学歴ですが

早来町立早来(現、安平町立早来)小学校・中学校→駒沢大学附属苫小牧高校

 

となっています。

 

駒沢大学附属苫小牧高校の偏差値ですが

普通科特別進学・A特進国立大学進学系 61
普通科特別進学・B特進大学進学系 50
普通科特別進学・看護進学系 49
普通科総合進学・総合系 45
普通科総合進学・文化系 44
普通科総合進学・体育系 44 

 

となってて、この高校は楽天・田中将大投手が卒業生ですね。

 

以上が、橋本聖子さんの学歴に関する記事ですね。

橋本聖子の若い頃(幼少期)の経歴は?

橋本聖子さんの若い頃(幼少期)の経歴ですが

 

1964年10月5日、東京オリンピック開会式の5日前に産まれます。
東京オリンピックの祭典を母親と父親が見に行き、父親が聖火のシーンを見て感動し、「聖子」と名付けた

 

北海道勇払郡早来町と言う酪農が盛んな人口5000人程の小さな町で育ち、実家は牧場経営をされています。

子供の頃は、吹雪くと車が使えず、馬そりが唯一の交通手段になるような厳しい気候の土地だそうです。

 

父親は、本気で橋本聖子さんをオリンピック選手にしたいと本気で思ってたそうです。

その為、橋本聖子さんは「オリンピックに出るために生まれた」「何の種目でもいいからオリンピック選手になれ。」と聞かされ育って来て、幼少期から「聖子はオリンピックになる」と言って家族を喜ばせていたそうです。

 

その後、小学校1年の冬にテレビで札幌オリンピックを見て、オリンピックと言うものが少し分かったそうです。

ちなみに、父親のオリンピックの夢が知らず知らずのうちに自分の夢に変わって行ったそうですよ。

 

さらに、幼少期から親に「勉強しなさい」と言われた事は一度もないそうですが

家事や牧場の仕事を手伝うのは当然の事で、そのやり方については厳しく教えられたそうです。

ご飯をよそった茶わんは必ず両手で手渡しなさい・食後の食器はすぐに洗って、でも音を立ててはいけないなど…かなり厳しかったそうですよ。

さらに、父親への口答えは言語道断で、親への挨拶は正座で指をついて行い、兄弟にも敬語で話してたそうです。

 

ただ、橋本聖子さんは、父親の厳しいしつけのお陰で、自分の基礎が出来たと感謝をされてるそうです。

 

実家の牧場の中に周囲200m程の池があり、冬には凍ってスケートリンクになるので、近くの小学生が授業で滑りに来ていました。

橋本聖子さんは、姉や兄とは年が離れていて、人里離れた牧場で近所に同じ年齢の遊び友達はいなかったので

近くの小学校の人達と遊べるのが嬉しくよちよち歩きの頃から長靴でスケートの真似をしてついて回っていたそうです。

 

ちなみに、父親は、子供だからと言って手加減してくれない本当に厳しい人だったそうですが

一生懸命やればちゃんと評価してくれ、褒められると、子供心に本当に嬉しかったそうです。

そんな単純な理由の積み重ねがオリンピックを本気で目指す様になったそうです。

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橋本聖子の若い頃(小・中学校時代)の経歴は?

橋本聖子さんの若い頃(小・中学校時代)の経歴や画像ですが

 

小学校2年時、オリンピックでスピードスケートがある事を知り

幼少期からスケートに馴染みがあり、これならオリンピック選手になれるのでは?」と思ったからスピードスケートを始める

 

スケートや乗馬の手ほどきをしてくれたのは父ですが

最初のコーチは、早来町役場に勤める・近所の子供達にボランティアでスケート指導をしてる雄谷彰さんだそうです。
橋本聖子さんは、雄谷さんに幼稚園~中1まで指導されてたそうです。

橋本聖子さんは、雄谷さんから「スケートは楽しい」と言う事を教わったそうです。

 

そして、小学3年生の冬に腎臓病にかかり、2ヵ月間の入院を余儀なくされ、丸2年間スケートだけでなく体育などスポーツ全般を禁止されます。

家族と離れての入院生活・食事制限などが…辛く最初は泣いてばかりでした。

 

しかし、小児病棟には、ベッドから全く起き上がれない子・不自由な体に生まれついてしまった子などがいて

さらに、同じ3年生の友達が亡くなるときに「私の分まで生きてね、がんばってね」と言う言葉も掛けられたのだそう…

これら経験が「健康である事は何よりの幸せで、幸運にも生かされた自分は、その子達のためにも頑張らなけない」と言う思いが、政治で福祉を目指す原点だそうです

 

そして、入院した時に母親に

「神様は誰に対しても平等に、喜びと悲しみと、楽しさ、苦しさを与えてくれる。だから、最初につらいことや悲しいことを与えられた人には、後に喜びや楽しみがたくさん残っている。だから、今病気になってありがたいと思いなさい」

「悲しいとか苦しいとか思うときに、それをいかにしっかり受け止めて笑顔でいられるかが、人間にとって大切な事なんだよ」

 

と教えられたそうです。

 

その後、中学2年時に本格的に練習復帰する

そして、苫小牧市内のコーチの自宅に下宿し、競技を行う

 

中学3年時に、全日本選手権を初制覇

 

以上が、橋本聖子さんの若い頃(小・中学校時代)の経歴や画像になりますね。

橋本聖子の若い頃(高校時代)の経歴などは?

橋本聖子さんの若い頃(高校時代)の経歴などですが

 

スケートの強豪・駒沢大学附属苫小牧高校に進学する

 

高校1年、国内の同世代に敵はなく、世界ジュニア選手権の日本代表メンバー

高校2年、全日本スプリント・全日本選手権で優勝

 

高校3年、腎臓病がひどくなり、入院し、病院でB型肺炎に感染し、ストレス性の呼吸筋不全症も患ってしまいます。

1週間生死の境を彷徨い、医者から競技を辞める様に言われる

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橋本聖子の若い頃の画像や経歴は?オリンピックでの成績は?

さらに、橋本聖子さんの若い頃ですが

 

1983年高校卒業後は進学せず、実業団・富士通に入社(1994年退社)し競技を続ける

 

そして、橋本聖子さんは19歳~31歳までの12年間で、冬のスケート4回・夏の自転車3回の計7回出場してます。

7回の出場は、日本女子最多記録になります。

 

19歳の時に、第14回冬期オリンピック・サラエボ五輪大会にオリンピックに初出場します。

ずっと父親から聖火のすばらしさに聞かされてきたので、点火の瞬間・聖火は神が放った光の矢のようなに見え、とても感動し全身を稲妻のような衝撃が駆け抜け、涙をこらえるのに大変だったそうです。

聖火を見るまでは「出場する事に意義がある」と言う考え方でしたが、「それじゃあいけないんだ。勝たないといけないんだ。」と思う様になった

さらに、サラエボは平和だったものの、日本の中古車を使ったタクシーが割れた窓に新聞紙を貼って走っていたり、前年の世界ジュニア選手権で訪れた時に比べ外貨獲得を狙って物価が急上昇していたり…生活の多くが貧しくも不便に感じられたそうです。

そして、さまざまな主義・主張や宗教、それぞれの国の事情を抱えた世界中の人達が、スポーツを通じて一体になり、理解しあい、世界平和を望むことの素晴らしさを改めて感じたそうです。

子供の頃の夢と現実のオリンピックは大きく異なっていて、その大きさと重みを全身で感じ取った大会だそうです。

 

サラエボでは、全4種目に出場し、全て8位入賞は出来なかった(500m11位、1000m12位、1500m15位、3000m19位)

 

サラエボの後、3年間かけ体質改善を図りました。

 

1988年、カリガリーでは全5種目に出場し全て日本新記録で入賞(最高は500mと1000mで5位、その他は1500m6位、3000m7位、5000m6位)

ただ、最後の5000mで、力を使いきり、転倒してのゴールインとなった

この事が「メダルで感動してもらえるようでなければ」と悔しく、次のオリンピックに向かう力になりました。

 

1988年、ソウル夏季オリンピックに自転車で出場し、日本人で史上初の夏冬のオリンピック出場になる

 

カルガリー大会の後、自転車競技の選手として、次の夏のソウル五輪を目指しますが
その事が、日本で前例がなかったので、かなり騒がれました。

ただ、元々スピードスケートと自転車は使う筋肉が似てるので、夏のトレーニングに必ず自転車を取り入れてたそうです。

その為、世界的にはスケートの選手が自転車に転向する事は珍しくはなかったので、サラエボ以前から挑戦してみたいという気持ちはあったそうです。

 

1988年、書籍「橋本聖子のすべて」出版

 

1989年、世界オールラウンドスピードスケート選手権大会にて、500m銀など日本人初の総合銀メダル

 

アルベールビル五輪の前は、ひざの故障などの不調に悩まされていたので

ケガによる練習不足を解消するために1ヵ月前から単身オーストリアに行き、毎日40~50㎞の滑り込みをして、一から筋肉を作り直しました。

そして、「当日は最高の状態で迎えられる」と、毎日理想の滑りをイメージしました。

そうした努力の影響で、1992年冬季アルベールビル五輪では全5種目に出場し、1500mで自己記録・2分6秒88で、銅メダルを獲得する(その他成績、1000m5位入賞、500m12位、3000m12位、5000m9位)

この事は、「冬期五輪史上初の日本女子選手の快挙」だったそうです。

 

1992年、バルセロナ五輪に自転車競技で出場し、女子3000m個人追抜で11位

 

1994年、リレハンメル冬季五輪では、日本選手団主将を務め、500mを除く4種目に出場

3000mでは、他の選手の転倒に巻き込まれ、左肘・左脇腹を打撲する

その後、再レースで、日本記録の6位を記録する(その他記録は、5000m8位入賞、1500m9位、1000m21位)

 

1995年、自民党から衆議院議員に初当選し、議員とアスリートで活動する

1996年、自転車競技アトランタオリンピックに出場(女子3000m個人追抜12位、女子2万4000mポイントレース9位)

 

橋本聖子さんは、オリンピックでは常に「最大限の努力をし、聖火に恥じないレースをしよう」という事だけを心がけていたそうです。

身長156㎝・肺活量の少なさと言ったハンディがありましたが、やり過ぎと言われる程の練習量でカバーしたそうです。

 

以上が、橋本聖子さんの若い頃の経歴や画像・動画に関する記事ですね。

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