今回は、80歳で天国に旅立たれた藤木孝さんの
若い頃の画像や動画などや
ロカビリー歌手や文学座研究生時代などの経歴
息子さんやお兄さんなど家族に関する情報
などなど…藤木孝さんの若い頃や家族について書きました。
目次
藤木孝の若い頃の画像や経歴などは?

引用:アメブロ
藤木孝さんの若い頃についてですが
玉川学園中等部卒業
元々音楽好きだったので東宝芸能学校に通い卒業する
1959年、ジャズ好きだったので、歌手として渡辺プロダクションと契約する
「24000回のキス」でデビューし大ヒットする
当時アメリカで流行してたツイストを勉強する為に、米軍キャンプに行ってたそうです。
1960年代はロカビリー全盛期で
「レージィ・ギター」「踊れツイスト」「ツイストNo.1」「ママのツイスト」などのヒット曲を連発し、「ツイスト男」と呼ばれていました。
そして、藤木孝さんのダンスや歌唱力には定評がありました。
1962年、松竹に引き抜かれ、人気絶頂で歌手引退し、渡辺プロの当時の社長の反対を押し切り退社
俳優になるまでの経緯ですが
「ウエストストーリ」が上映され、雷に打たれた様に「ミュージカルをやりたい」と思う様になったとか
そして、歌手時代、「自分は、本当はポピュラーソングではなく、やはりジャズがやりたい」とロカビリー歌手としての自分に疑問を抱かれてたそうですよ。
1962年、一緒に仕事をしてた岡田真澄さん・杉浦直樹さん・南原宏治さんが所属してた文芸プロダクション「にんじんくらぶ」に入り、俳優へ転身
1962年、篠田正浩監督の映画「涙を、獅子の髪に」では主演を務めました

引用:https://koimousagi.com/4572.html
1963年、日本で初めて上演するブロードウェイミュージカル「マイ・フェア・レディ」のフレディに抜擢される
東京宝塚劇場で初演、1964年に同じ劇場で再演後、大阪梅田コマ劇場と3回出演する
1964年、篠田正浩監督の映画「乾いた花」で再び主演を務める
ちなみに、こちらは21歳の頃の藤木孝さんです。

引用:https://twitter.com/nohohonjinsei/status/1255132187269017603?s=20
当時について、篠田正浩監督は
藤木孝はナベプロ全盛時代の売れっ子歌手だった。
それを松竹が引っこ抜いた。
でもほかの監督では彼を扱えないので、私に白羽の矢が立って、
彼を主人公にして、加賀君を相手役に抜擢した。
(「涙を、獅子のたて髪に」の話)
その延長で「乾いた花」のキャスティングをしたんです。
博奕に溺れる女に加賀まりこ、
ジャンキーの殺し屋に藤木孝、
それに現代的な虚無をまとった二枚目の池部良。
この組み合わせがよかった。
と語られています。
そして、「自分で自分の演技を客観的に評価してみたら、とてもじゃないけど舞台に出る資格はない」と思い
演技を基礎から学ぶため文学座の研究生になる
1963年、「にんじんくらぶ」が解散し、福田恒存さんを頼り、同氏が芥川比呂志さん・仲谷昇さんと作った「現代演劇協会」に参加する
1966年、「現代演劇協会」の内部で福田さんが中心になり出来た「劇団欅」に参加する
ちなみに、この時、藤木孝さんは文学座の研究所で勉強してる状態で
養成所から準座員、正座員と言うものを飛び越えて、「欅」の正座員になったとか
ちなみに、この事は藤木孝さんのコンプレックスだそうです。
1967年、劇団欅の第一回公演「億万長者」では、前衛作曲家の役を演じる
ちなみに、この舞台練習時にかなりのダメ出しを喰らったそうです…
1976年~、劇団雲と劇団欅の統合により誕生した劇団昴に所属し、主に翻訳劇などで活躍
最後に、藤木孝さんの若い頃の動画ですが
以上が、藤木孝さんの若い頃に関する記事ですね。
藤木孝の家族(息子・兄)の情報などは?

引用:アメブロ
藤木孝さんの家族に関する情報ですが
今回の藤木孝さんのニュースにより
- 息子さんと同居してた
- 亡くなってる所を息子さんが発見した
と言った感じで、息子さんがいてた事が分かりました。
ただ、藤木孝さんが家族について語られてるものは全くなく
息子さんに関する情報はこれ以上は分かりませんでした…
所属事務所によると、この日未明、同居する息子が帰宅したところ、亡くなっていた本人を発見した。
引用:ヤフーニュース
ちなみに、「SHOW HOLIC」により
お兄さんがいてる事が分かりました。

引用:https://www.showholic.jp/artists/15550
以上が、藤木孝さんの家族に関する記事ですね。