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川淵三郎の経歴や学歴(出身高校・大学)は?若い頃の画像などは?

今回は、川淵三郎さんの

 

 

出身高校や大学などの学歴

幼少期〜社会人・日本代表選手時代の若い頃の画像や経歴

 

現役引退後〜現在までの経歴

 

 

など…川淵三郎さんについて書きました。

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川淵三郎の学歴(出身高校・大学)は?若い頃の画像や経歴は?

引用:https://web.gekisaka.jp/news/detail/?287429-287429-fl

川淵三郎さんの若い頃や学歴ですが

 

1936年12月3日 大阪府泉北郡高石町(現、高石市)にて川渕眞一さん・淑子さんの3男として生まれる

 

1943年 大阪府高石町立高石国民学校入学

 

小4、吉岡たすくさんが学校に赴任して来て、演劇の指導を受ける

吉岡たすくさんが出演してた「NHKラジオの放送劇」に高校まで出演する

 

小6では、劇「海の子」の主人公を務めた

 

下の中央が、小6の川淵三郎さんになります。

引用:https://www.ssf.or.jp/files/story_17.pdf

 

1949年 大阪府高石町立高石中学校入学(野球部所属)
野球では、全大阪大会に出場し、準優勝をする

 

後列、右から2人目が川淵三郎さんになります。

引用:https://www.ssf.or.jp/files/story_17.pdf

 

1952年~1955年 大阪府立三国丘高校

1955年7月 三国丘高校・サッカー部に入部

友人に「四国の高松で夏にサッカーの大会がある。今サッカー部に入れば四国に行けるぞ。」と言われ、サッカー部に入った

高校は、サッカー強豪校だったが、日頃練習に参加する部員が10人程
試合では、辞めた部員やサッカーが得意な人を連れて来たりするなど…当時のサッカーは人気が低かった

サッカー部を退部する為に、先輩に「扁桃線が弱いので医者から過激なスポーツは禁止されてます。」と言いに行くも、「おまえ四国に行ったんやから何とか辞めんといてくれ」と懇願され、ずるずると続け、次第に面白くなり始めたそうです。

 

運動神経が良かったので、ハンドボール部の新人戦にかり出され、得点を入れまくる活躍をしてた
さらに、体育の先生がバンドボール元日本代表で、部に勧誘されるも入らなかった

 

高校3年に全国高校サッカー選手権でベスト8になり、新聞で「超高校級FW」と書かれる

 

1957年 2浪後早稲田大学第二商学部商学科に入学

元々は、大阪大学を目指してた

浪人時代は、サッカーが好きすぎて、予備校に行かず、高校に行き毎日後輩とサッカーをしてた

ただ、浪人時指導した後輩は全国大会に出場し「川渕さんが指導してくれたお陰です。」と言われたらしい

この頃、自身も「三国丘クラブ」でプレーし、都市対抗サッカー大阪府予選決勝で大阪サッカークラブに負ける
大阪サッカークラブの設立者で日本代表の川本泰三さんから「早稲田大学にぜひ推薦したい」と言われ、早稲田志望に変更する

 

浪人時代、既に合格して家を出て行ってた友人宅で食事付きの居候生活をされてた事もあるそうです。

 

1957年 早稲田大学ア式蹴球部でプレー(同期は、宮本征勝さん)

1957年 大学1年で関東大学リーグで優勝・東西大学決定で関西学院大学選では得点を挙げる活躍をする

1958年 大学2年で日本代表に初選出・関東大学リーグ優勝

1959年 ローマ五輪アジア予選出場

1960年 第7回チリW杯アジア予選出場・関東大学リーグ優勝
大学4年間で、3回優勝を果たす

 

大学4年時に、欧州遠征でクラマーさんと出会い、「常に仲間の事を思いやって動け」と言う方針による指導に感銘を受け、人生の恩師となる

引用:https://www.ssf.or.jp/files/story_17.pdf

 

1961年3月 早稲田大学第二商学部商学科卒業・古河電気工業入社

1961年4月 横浜電線製作所勤務・横浜電線製作所サッカー部に入る

当時は、実業団がサッカー部に力を入れてる時代で
大学1年時には、東洋工業に勧誘されれ、元々はそこに入るつもりだった

しかし、古河電気がどうしても取りたいと言われ
長沼健さんが監督兼選手・メンバーに八重樫さんや平木隆三さんがいるなど…日本代表仲間が多かったので、入る事を決める

 

古河電気の一期下には、国際サッカー連盟理事の小倉純二さんがサッカー部マネージャーをしてた

引用:https://www.ssf.or.jp/files/story_17.pdf

 

社員としては、生意気ではあるけど仕事が出来る人だったそうです。

 

1962年 インドネシア・ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会に出場

1962年12月 結婚

 

1964年 日本代表に新人・釜本邦茂さんが出現し、センターFWから右ウイングに追いやられる

日本代表として東京オリンピック出場・対アルゼンチン戦でゴールを挙げる

 

1970年 現役引退(日本代表通算68試合、18得点)、古河電気工業サッカー部コーチ就任

膝・腰が限界だったので、東京オリンピックの最終試合・ユゴースラビア戦の後クラマーさんに「これでサッカーを辞めて仕事に専念します」と告げると

クラマーさんに「そんなにすぐにやめるな。君には、長時間かけてレベルアップして来た事をきちんと後輩に伝える仕事がある」と怒られたそうです…

 

左から3人目が川淵三郎さんになります。

引用:https://www.ssf.or.jp/files/story_17.pdf

 

以上が、川淵三郎さんの学歴や若い頃に関する記事になりますね。

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川淵三郎の経歴は?

引用:https://web.gekisaka.jp/news/detail/?287429-287429-fl

川淵三郎さんの経歴ですが

 

1972年~1975年 古河電気工業サッカー部監督就任

 

1976年~1979年 日本サッカーリーグ常任運営委員就任

1976年10月 伸銅事業部第1販売部課長に就任

 

1980年6月 LA五輪強化部長に就任

1980年8月 系列会社「谷商株式会社」の常務取締役

1980年11月 日本代表監督代行就任

 

1981年 日本代表監督退任

 

1982年6月 古河電気工業・名古屋支店金属営業部長

 

1984年4月 日本サッカー協会強化部長退任

 

1988年6月 古河産業へ出向、取締役伸銅品部長に就任

1988年8月 JSL総務主事就任

1988年10月 日本サッカー協会理事就任

 

1989年6月2日 JFA・プロリーグ委員会委員長就任

 

1990年8月 プロリーグ検討委員会委員長就任

 

1991年3月 強化委員長・プロリーグ設立準備室長就任

1991年11月 社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立し初代チェアマン就任

1991年11月 古河電気工業退社

 

1993年5月 Jリーグ開幕宣言を国立競技場にて行う

 

1994年5月 日本サッカー協会副会長就任

1994年6月 W杯日本招致委員会実行副委員就任

1994年10月 強化委員長退任

 

1996年7月 2002年W杯開催準備委員会実行副委員長就任

1997年12月 2002年FIFAW杯日本組織委員会理事就任

 

2002年7月 Jリーグチェアマン退任・日本サッカー協会会長(キャプテン)就任

 

2008年6月 日本サッカー協会会長を退任・名誉会長に就任

 

2010年9月 日本サッカーミュージアム館長就任(任期は2年)

 

2011年5月 日本将棋連盟非常勤理事就任

2011年6月~2012年11月22日 東京都教育委員就任

 

2012年3月 心の東京革命推進協議会会長就任

2012年4月 JFAアカデミー堺スクールマスター就任

2012年6月 日本サッカー協会名誉会長退任・日本サッカー協会最高顧問就任

2012年11月 東京都教育委員退任・猪瀬直樹選挙事務所の選対本部長就任

 

2013年4月1日 公立大学法人首都大学東京理事長就任(任期4年)

 

2015年1月 国際バスケットボール連盟主導で設立された日本バスケットボール協会改革のためのタスクフォース「JAPAN 2024 TASKFORCE」のチェアマン就任

2015年4月 一般社団法人ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ理事長就任

2015年5月 日本バスケットボール協会会長就任

2015年5月 日本トップリーグ連携機構会長就任

 

2016年6月 日本バスケットボール協会会長退任・エグゼクティブアドバイザー就任

 

2017年3月 公立大学法人首都大学東京理事長退任

 

 

2018年3月 日本サッカー協会最高顧問退任・日本サッカー協会相談役就任

 

 

2019年3月 一般社団法人大学スポーツ協会顧問就任

2019年12月 東京オリンピック・パラリンピック選手村村長就任

 

ちなみに、古河電気工業内で

 

43歳で卸問屋に出向されたそうですが

 

経営難に陥っていた卸問屋を経営者の立場で立て直す仕事は貴重な学びの場となり

卸先の問屋のオヤジさん達は、海千山千のツワモノ揃いで、今までのお客さんとは全く別物でした。

ただ、この時に、泥臭く苦しみながらつかんだ経営ノウハウは、後にJリーグを運営する力になったそうです。

 

順調に課長になり、次は部長だと意気込んでいた43歳の時に下りた辞令は、ある卸問屋への出向。いろいろ勉強してこいと送り出されました。メインのルートから外されたのは本当に悔しかった。しかし、経営難に陥っていた卸問屋を経営者の立場で立て直す仕事は貴重な学びの場となりました。卸先の問屋のオヤジさんたちは海千山千のツワモノぞろいで、納品や支払いなども私の勤務していた古河電気工業の得意先取引とは全く別物。ルールが違うその懐に飛び込んで、倒産を回避しながら会社を存続させるにはどうしたらいいのか。泥臭く苦しみながらつかんだ経営ノウハウは、後にJリーグを運営する力になりました。

 

以上が、川淵三郎さんの経歴になりますね。

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