今回は、95歳で天国に旅立たれた川崎富作さんの
プロフィールや
幼少期~現在までの経歴
高校・大学などの学歴
などなど…川崎富作さんの経歴や学歴について書きました。
目次
川崎富作のプロフィールは?

川崎富作さんのプロフィールですが
- 名前:川崎富作(かわさきとみさく)
- 生年月日:1925年2月7日生まれ
- 出身地:東京府東京市浅草区浅草
以上が、川崎富作さんのプロフィールになりますね。
川崎富作の経歴は?

川崎富作さんの経歴ですが
1925年2月7日、東京・浅草で7人姉兄の末っ子で生まれる
1948年、千葉医科大学臨時附属医学専門部(現、千葉大学医学部)を卒業
1949年5月、千葉医科大学小児科の医局に入局
1949年の暮れ~、日赤中央病院に派遣される
「ラジオドクター」として有名な内藤寿七郎さんの6年間の指導の下で、臨床の基本を所得する
1950年1月~、日本赤十字社中央病院(現、日本赤十字社医療センター)にの小児科に勤務
1957年7月、千葉大学より医学博士の学位を受ける
1970年、厚生省が組織した川崎病研究班に参加
1973年、日本赤十字社医療センター小児科部長に就任
1974年、第2代厚生労働省川崎病研究班長に就任
1980年、第16回国際小児科学会において始めて川崎病のシンポジウムがもたれ、座長を務める
1986年、第4回 Behring・北里賞を受賞
1987年、「川崎病の発見とその疫学・診断治療に関する研究」にて第33回武田医学賞を受賞
1988年、日本医師会医学賞を受賞
1989年、朝日賞を受賞
1990年
- 日赤医療センターを定年退職
- 川崎病に関する情報を収集・発信する日本川崎病研究センター設立し、理事長に就任する
- 東京都台東区に「川崎富作小児科診療室」を開く
- 久留米大学客員教授に就任する
1991年、第81回日本学士院賞を受賞
1992年、日本川崎病研究センター所長
1996年、第12回東京都文化賞を受賞
1999年、特定非営利活動法人日本川崎病研究センター理事長
2006年、第1回日本小児科学会賞を受賞
2010年、東京都名誉都民
2013年、小児科外来医を引退
理由は、90歳近くなり足腰に衰えが出て来た為
最後に、川崎富作さんと川崎病に関する詳細ですが
1961年1月、診察を受け持った4歳児の未知の疾患に遭遇した。
翌1962年、非猩紅熱性落屑症候群の名前で千葉県小児科学会で報告
さらに1967年に自験50例をまとめた論文を雑誌『アレルギー』に発表し、注目を浴びた。
最初は単純な疾患と考えられたが、病理学的に冠状動脈に動脈瘤が見られ、死亡例も多かったので、川崎病(Kawasaki disease)が定着した。1979年、「ネルソンの小児科学書」が独立病と記載される。
この疾患の最初の報告者である川崎豊作の名前を取って「川崎病」と呼ぶようになる。
以上が、川崎富作さんの経歴になりますね。
川崎富作の学歴(高校・大学)は?

川崎富作さんの高校・大学などの学歴ですが
小学校時代は班長だった
旧制中学時代に、太平洋戦争勃発で厭世的な気分も重なり、受験に失敗する
1浪後、1943年千葉医科大学臨時附属医学専門部に入学する
と言った感じになりますね。
出身高校は、東京都立墨田川高校になりますね。
この高校は
- 1921年、東京府立第七中学校として創立
- 1943年、都制施行で東京都立第七中学校に改称
- 1948年、学制改革で東京都立第七新制高校になる
- 1950年、東京都立墨田川高校に改称
と言った感じの高校になります。
さらに、墨田川高校は
- 極端なエリート教育ではなく、地域に根差した教育が行われる
- 優秀な国語教師が多く在籍し、校歌を作詞した幸田露伴の影響で、自由で文化的な校風
旧制第一高等学校をはじめとする旧制高等学校や海軍兵学校、陸軍士官学校などへの進学者を輩出する一方、中学を卒業して社会に出る者も少なくなく、極端なエリート教育ではなく、地域に根ざした教育が行われていた。文人墨客に愛された向島の地に設立されたことから、優秀な国語教師が多く在籍し、校歌も近隣に居住していた幸田露伴による作詞であるなどの影響も相まって、自由で文化的な校風が育まれた。
と言った感じの高校になりますね。
最後に、墨田川高校の現在の偏差値は60となっていますね。
ちなみに、川崎富作さんは元々生物が好きで園芸に進むつもりでしたが…
母親に「医者になって欲しい」とせがまれ、親孝行のつもりで医学の道に行かれたみたいですね。
以上が、川崎富作さんの高校・大学などの学歴になりますね。