今回は、菅義偉さんの
父親の南満洲鉄道職員やイチゴ農家時代など意外な生い立ち
野球部や家出空手道など学生時代などの経歴や画像
就職や秘書時代や結婚など若い頃の経歴や画像
などなど…菅義偉さんの生い立ちや若い頃について書きました。
目次
菅義偉の生い立ちは農家?

引用:https://www.sankei.com/smp/politics/news/200114/plt2001140020-s1.html
菅義偉さんの生い立ちですが
1948年12月6日、秋田県雄勝郡雄勝町にある農家の父・和三郎さんと母・タツさんの長男として生まれる
家族は
- 高校教師の姉2人と弟が1人いてる
- 母、叔父、叔母は元教員
と言った感じでかな立派ですね。
父親は元々は南満州鉄道の職員で、その頃は
- 凄く待遇が良く
- 官舎がありお手伝いさんがいた
様です。
この時に姉2人が誕生しています。
しかし、戦争で負けた時は、一転し引き揚げてくるときは大変だった
父親は終戦後、「これからは米だけでは食っていけない」といい、いちごの栽培を始める
地元のこまち農業協同組合に対抗し、いちご生産集出荷組合を創設し、地元の「秋ノ宮いちご」の生産に力を入れる
全国的に知られるいちごの産地ではないが、豪雪地帯の寒冷地ゆえ、出荷を遅らせる事ができ、これが大成功する
本人の名前から付けた「ニューワサ」というブランドで秋ノ宮いちごを売り出す
父親は92歳で鬼籍に入るまで、いちご組合の組合長として、独自の生産、出荷・販売ルートを築いた
ちなみに、両親について
両親は働き者で、わたしが起きたころに畑から帰ってくる。
と語られています。
そして、菅義偉さんの実家は
- 冒険王という月刊の漫画雑誌が、菅義偉さんの家には毎月配達されていた
- 冒険王を買って貰えるのは、一学年に二~三人いるかどうかのレベルだった
と言った感じで
裕福とはいえないまでも、貧農ではなかったみたいです。
そして、実家が小学校から直線で百メートルほどだったので
- 漫画を読みたい友だちが家の前で並んで待っていた
- 菅義偉さんは友だちに封を開けさせて先に読ませて、自分は夜に読んでいた
と言った感じみたいですね。
以上が、菅義偉さんの生い立ちになりますね。
菅義偉の若い頃の経歴は?小学校〜大学まで

引用:https://www.sankei.com/smp/politics/news/200114/plt2001140020-s1.html
菅義偉さんの若い頃の経歴ですが
家の近くにある雄勝町立秋ノ宮小学校・中学校(湯沢市立雄勝)に通ってた
小学校時代からスポーツ万能で、相撲、野球、バスケ、陸上、スキーの選手に選出された
中学では野球部、サードで1番打者で出塁率4割近くあった
野球部時代は
- 菅義偉さんは、バットを投げ出すような変わった打撃フォーム
- 先生に注意を受けるも、「自分はこっちのほうが振りやすいから」と自分を貫く
と言った感じでした。

県立湯沢高校に進学する
一番近い高校にも関わらず片道2時間掛かり、部活は続けられなかった
高校3年で進学組に所属してた
ちなみに、菅義偉さんの田舎では
同級生の友達120人の内、高校進学は30人しかいない
と言った感じでした。
同級生の友だち百二十人のうち、六十人が中学校を卒業して東京に集団就職していました。残った六十人のうち、三十人は農家を継いで、高校に行ったのは三十人しかいない。
さらに、高校の同級生の湯沢市議会議長・由利昌司さん曰く
高校の同級生で菅義偉さんを知ってる人は少なく
卒業アルバイトを見たら同じクラスだったと言うエピソードがある
みたいですね…
高校の同級生で義偉くんのことを知っている者は少ない。彼が政治家になったとき、『菅ってどんな奴だ?』と聞いた奴が、卒業アルバムを見たら同じクラスだったというエピソードがあるくらいです。当時は、誰も彼がこんな大政治家になるなんて思ってなかった。
1967年3月、18歳の菅氏は、秋田県から集団就職列車に乗って上京した
上京したのは
- 親戚が教師だらけだったのでそれだけはなりたくなかった
- 家業を継ぐ為に、父親に農業大学進学を勧められるも断る
と言った感じで…
「東京に行けばいい事があるんじゃないか」と家出同然で出て来た
みたいですね。
青雲の志なんてたいそうな話じゃない。どんよりした雲。降り積もる雪。農家の長男だから農業を継がなければならない。とにかく田舎から逃げ出したい、その一心。家出同然だった……
姉だけでなく、叔父や叔母など親戚が教師だらけだったので、それだけはなりたくなかった。かといって、農業を継ぐのも嫌でした。それで、東京に行けばいいことがあるんじゃないかなって感じで、ある意味、逃げるように出てきたのです。
上京後、板橋区の段ボール工場に勤務するも、2カ月で辞めてしまう
現実の厳しさを知り、やっぱりどこかの大学に入らないとマズイと思い始める
ただ、東京で自分の好きなことをやろうっていう程度でした。そこで初めて、現実がいかに厳しいかに気がついたわけです。私が一番思い出したくない青春です。そうして、やっぱりどこかの大学に入らなきゃまずいなと思いはじめたのです。
朝は築地市場で台車運びなどを行い、夜は新宿の飲食店で皿洗い
その合間に受験勉強を行い、上京して2年後の1969年4月に法政大学法学部に入学
法政大学を選んだのは、授業料が最も安かったので
ちなみに、大学は別に法政大学でなくてもよかったみたいですよ。
入学後、ガードマンや新聞社の雑用、カレー屋などのアルバイトで生活費と学費を稼ぐ
大学時代、アルバイトをしながら、剛柔流空手動部に入り三段を取得する
空手を始めたのは「厳しいところで自分を鍛えたい」と言う思いから
空手部では
1年生と4年生との間の絶対的な力の差があり、厳しい縦と実力の世界だった
1、2年生の頃は「これほど厳しくする必要があるのか」と疑問を感じたり、「何の意味があってこのように理不尽なことをさせられるのか」と苦労する事が多々あった
しかし、4年生になり厳しかった意味を理解出来た
と言った感じみたいです。


引用:https://www.jkf.ne.jp/wp-content/themes/jkf-child/pdf/ayumi/ayumi_vol9.pdf

ちなみに、菅義偉さんは空手から
空手からは礼節や先輩、後輩の序列を学びました。そして我慢することを覚えた。練習はすごく厳しかったが、どんなにきついことも時間が来れば終わるということを知りました。アルバイトばかりの大学生活でしたが、人生修業はやった気がします
と言った感じで、多くの事を学んだみたいですね。
菅義偉の若い頃の経歴は?秘書・就職時代など
引用:https://www.sankei.com/smp/politics/news/200114/plt2001140020-s1.html
菅義偉さんの若い頃の経歴ですが
1973年3月に大学を卒業後、建電設備株式会社(現:株式会社ケーネス)に就職するも、「自分が本当にやりたいことは何か」をいつも考えてた
大学時代は「ゆくゆくは実家に帰らないとまずいんだろうな」と考えていましたが
「まだすぐには実家に帰りたくないし、他の大学生はそこから就職するというし」と言った感じで就職をされました
そして、「人生は一回きりだから自分の思うように生きたい」と考えるようになり
本を読んで考えている内に「この世の中は政治が動かしてるんじゃないか」「政治は世の中の根幹だ。そこがいちばん面白そうだ。日本を変えたい。」と思い、政治家を志す
大学の学生課とOB会を訪ね、「法政出身の政治家を紹介してください」と頼み込み、第57代衆議院議長中村梅吉秘書の紹介で衆院議員・小此木彦三郎さんを紹介される
1975年、26歳で横浜の事務所で11年間秘書務め、書生のような暮らし行う
ちなみに小此木彦三郎さんは
礼儀の厳しい人だった。箸の上げ下ろしから教えてもらった恩人です。
と言った感じの方みたいですね。
秘書時代に出会った5歳年下の真理子夫人に一目惚れし、結婚する
お嫁さんは
真理子夫人は秘書仲間だった女性のお姉さんでした。菅さんは『(パッと見て)なんとなく(結婚する)』と、“ひと目ぼれ”だった
と言った感じ方になりますね。
1984年、小此木彦三郎さんが通産大臣に就任すし、菅義偉さんは大臣秘書官に抜擢される
この事で、本当の意味での政治の世界を勉強になる
1987年4月、37歳で横浜市会議員選挙に出馬し、初当選
子供が3歳、1歳、1ヶ月と幼かったにも関わらず出馬を決めます
公認ももらえず、選挙区には後援会長のなり手もいない孤立無援の戦いで
- 朝6時から夜9時まで、1日300軒回り、選挙までに3万軒を回る
- 選挙の間、靴を6足履きつぶす
と言う過酷な戦いだった

市議を2期務めて、 横浜市長の相談を受ける事もあり「影の横浜市長」と呼ばれてた
以上が、菅義偉さんの若い頃になりますね。




