今回は、エテリ・トゥトベリーゼさんの
若い頃の可愛い画像や動画まとめ
経歴や
若い頃の壮絶過ぎるエピソード
などなど…エテリ・トゥトベリーゼさんの若い頃について書きました。
目次
エテリ・トゥトベリーゼの若い頃の画像や動画が可愛い!

引用:https://www.instagram.com/p/B6oEt3ZikGz/?utm_medium=copy_link
エテリ・トゥトベリーゼさんの若い頃の画像ですが



引用:https://xxhuyuzero.jp/2020/02/27/eteritanjyoubiwakakihinoshasinappu/
かなり綺麗な方ですね。
そして、こちらが若い頃の動画になります。
動画で見ると、エテリ・トゥトベリーゼさんの若い頃の綺麗さが際立ちますよね。
エテリ・トゥトベリーゼの若い頃の経歴が壮絶過ぎる!

引用:https://www.instagram.com/p/B6oEt3ZikGz/?utm_medium=copy_link
エテリ・トゥトベリーゼさんの若い頃の経歴ですが
1974年2月24日、5人兄弟(兄1人、姉4人)の末っ子として生まれる
1/2がグルジア人、1/4がロシア人、1/4がアルメニア人の血筋だそうです。
父親は二交代制の工場に勤務しています。
エテリ・トゥトベリーゼさんが生まれる際、難産で母親は命の危機に晒されたそうです。
そして、父親は妻の名前をエテリ・トゥトベリーゼさんにつけたそうです。
とても厳しい家庭で、子供の頃は兄のお下がりをよく着てたそうです。
母親は、「娘たちには外国語と楽器演奏はプロレベルに身に着けさせるべきだ」と言う考えでした。
その為、お姉さんたちは、ドイツ語・英語の特別学校に通い、絵画のレッスンに通い、楽譜の読み方を習っています。
そして、エテリ・トゥトベリーゼさん自身も、音楽を習ってて、イッポリトフ=イワークノフ音楽学校でピアノを専攻し、優秀な成績をあげられています。
4歳半でフィギュアスケートを始める
初めてフィギュアを見た時は、スケート選手の動きをおとぎ話や魔法の様に見えたそうです。
母親に「スケートをさせて欲しい」と熱心に説得すると、優秀なコーチ・エヴゲニヤ・ゼリコワさんの教室に入れてくれたそうです。
このコーチは、口数の少ない非常に厳しい人でしたが、生徒たちは彼を非常に尊敬してたそうです。
運動神経が良く、最初は女子シングル選手だったけど、その後脊髄にひびが入る怪我をしてしまいアイスダンス選手に転向する
1980年代末、高校生になり、当時ソ連では多くの人達が稼ぎが少なくなり、エテリ・トゥトベリーゼさん自身も稼ぎが少なくなり大会に出る資金がなくなり、現役選手を辞めた
エテリ・トゥトベリーゼさんは現役時代、7回コーチを変更されています。
親の反対を押し切り18歳の時に生活費を稼ぐ為に、アメリカに移住し、6年間居住する
アイスショー「Ice Capades」で3年ほどアダージョペアスケーターとして参加する。
給料の一部をロシアの両親に送ってたので、生活は裕福ではありませんでした。
1995年4月、21歳でオクラホマシティの連邦政府ビル爆破事故が滞在してたすぐそばで起きて、破損したガラスなどを浴びるも、なんとか重い怪我を負うことなく、生き残る事が出来ました。
ただ、ガラスの破片が体中に刺さり、大変な状態だったそうです。
当時について
トゥトベリーゼの母親は映像を見て「最初、ニュースの映像を見て、娘が犠牲になったと思った。後に電話がかかってきて、『ママ、大丈夫よ』と連絡してきたが、実際は大丈夫ではなかった」と当時を振り返っていた。
引用:https://globe.asahi.com/article/14549554
と振り返られています。
ショーに出演されながら、アメリカで4年間コーチを務める
1999年、ロシアに帰国
最初は無料でコーチ業を務めるとしてあちこちで職探しをしたが、相次いで断られました。
モスクワ郊外のリンクでなんとか就職口を見つけ、ゼレノグラードにあるアイスホッケーのリンク「Serebrianyi」で指導を開始し、次第に指導方法が評判を呼びました。
当時、簡単リンクで介護グループのトレーナーとして勤務されています。
2003年からロシア連邦フィギュアスケート連盟モスクワ支部の一員になり、モスクワ市内の小学校でも働き始める
2013年、「サンボ70」のコーチになる
その後、エテリ・トゥトベリーゼさんがリプ二ツカヤ(2014年ソチオリンピック団体戦 金メダリスト、2014年世界選手権2位、2014年欧州選手権優勝)を育てた事がきっかけで、「サンボ70」は世界一の金メダル養成学校になっています。
以上が、エテリ・トゥトベリーゼさんの若い頃の経歴になりますね。
