今回は、あべ静江さんの
- 幼少期のエピソード
- 出身高校・大学などの学歴
- 学生時代のエピソード
- デビュー時のエピソード
- 若い時の画像や動画まとめ
などなど…若い時(若い頃・昔)について書きました。
あべ静江の若い時(若い頃・昔)は?幼少期のエピソードは?
#70年代 のあべ静江さん お綺麗でしたね✨ pic.twitter.com/WqARbxskri
— (@1an1a1a) September 14, 2022
1951年11月28日に三重県松阪市中町で生まれます。
父親はラジオ三重の専属ミュージシャンで母親は東海ラジオの専属歌手として生まれます。
幼稚園の頃は、幼稚園で覚えた歌を家で歌うと両親にダメ出しをされてたそうです。
幼少期から少女歌手として両親に連れられて慰問先でよく歌っていました。
小学生になってから1958年に誕生した東海テレビで子役として活動をスタートされます。
子役活動は、自分で決めて活動を始めたそうです。
当時は生ドラマしかなく、リハーサルが入念だったので、仕事が1つ決まると学校を1週間程休み朝から晩まで仕事する感じだったそうです。
中学に入ると、「子役としては少し大人っぽすぎるのでは?」と感じるようになり、芸能活動を一度休止する事を決めます。
あべ静江の若い時(若い頃・昔)は?学歴(出身高校・大学)は?
【ビバ! 昭和40・50年代】
小学時代から子役として名古屋で活躍中だった #あべ静江 さん。東海ラジオDJを経て 1973年5月に歌手デビュー。「コーヒーショップで」「みずいろの手紙」は名曲♪ pic.twitter.com/FVufUhhf87— 昭和レインボー (@ShowaRainbow) June 18, 2022
社会勉強になると祖父の勧めで三重県立松阪工業高校 定時制に進学するも、学校は楽しかったが、日中働きながら懸命に学ぼうとしている年上の同級生たちを目の当たりにし、何となく学生生活を送っている自分を恥じてその姿勢に感化され、8か月で高田高校に編入学します。
高校時代は、校内弁論大会で生徒の覇気のなさを訴えたのをきっかけに弁論部に誘われ、弁論部に入り、部長を務めました。
他校の弁論大会では、ヤジに応酬して制限時間を過ぎても話し続けたために、力づくで演壇からおろされたこともあったそうです。
元々はインテリアデザイナー志望でしたが、高校の先生に話すと「足場が悪い現場に出る事もあるけど、高い所は大丈夫か?」と言われ、その言葉におびえてしまい、諦めたそうです。
4年制大学志望でしたが、父親に反対されて東海学園女子短期大学へ進学し、短大1年時に名古屋のテレビタレントセンターの試験に合格し、この学校で1年間話し方、パントマイム、狂言などを学びます。
あべ静江さんは「この1年間は私の財産になりました」とコメントされています。
さらに、短大在学中に東海ラジオとエフエム愛知でDJを務め、東海ラジオで人気DJとなります。
名古屋のテレビタレントセンターは、NHKなど各局の現場プロデューサーやディレクターやチーフプロデューサーなどが指導に来て、現場と直結してたので、短大の2年になった時には仕事が決まってたそうです。
最初DJのオファーが来た時には「DJは自分の言葉でしゃべらないといけないので、難しそうだなあ」と思ったそうですが、「やってみてダメだったら、自分がクビになるだけだから、まぁいいかな」と思い始めたそうです。
DJの仕事が忙しくなり、段々の学校に行くより図書館やレコード室にこもる事が多くなり、短大2年生の夏に大学を中退します。
辞める事は、叔母にはすごく反対されましたが、両親は何も言わなかったそうです。
当時は、DJ以外にCMのナレーションやモデルの仕事もされてて、歌手デビュー時より収入が多かったそうです。
高田高校は
- 三重県津市の私立高校
- 偏差値は、普通科Ⅱ類数理コース 64 普通科Ⅱ類文理コース 57 普通科Ⅰ類 50
と言った感じの高校になります。
あべ静江の若い時(若い頃・昔)は?デビュー時のエピソードが凄い!
東海ラジオの製作部長などが父親のミュージシャン仲間が東海ラジオやテレビにたくさんいて、少女時代の歌手活動を知ってた事もあり、歌手デビューの話が持ち上がります。
あべ静江さんは、家では歌に厳しい人達が多かったので絶対歌わなかったそうですが、DJの番組内でかくし芸的に歌ってみようとなり、「欲求不満フォークソングボーイズ」のリーダーの奥山敬造さんが作ってくれた曲を「さよなら風にのせて」を歌い、その音源が色々な所に流れて行き、歌手デビューの話が持ち上がりました。
あべ静江さんはしゃべりの仕事をもう少しやりたかったし、新人歌手が来た時に自分が紹介する側だったのに、それが紹介される側になる事が絶対に嫌だったそうですが、「2年間の契約が終わったら辞めていい」と言われ、父親の親友に「一緒にやると思ってたからさ、そう返事しちゃったんんだよね。もうやる事で話が進んじゃってるんだよ」と頭を下げられ、その人は一番遊んでくれた人だったので、デビューを決めます。
1973年5月25日にキャニオンレコードから「コーヒーショップで」デビューし、この曲がオリコンベスト10に入るヒット曲になり、1973年に日本レコード大賞新人賞を受賞します。
デビュー時のキャッチフレーズは「フリージアの香り」になります。
あべ静江さんは、番組で作って貰ったオリジナル曲「さよならを風にのせて」でデビューすると思ってたので、「あれっ?」と思ったそうですが、結局押し切られる形で終わります。
1973年9月25日に2枚目のシングル「みずいろの手紙」もヒットし、1974年の紅白歌合戦に初出場します。
「みずいろの手紙」の歌詞を見た時に、男性に依存するような女性の歌に感じ、当時は女性の社会進出など強くなり始めてた時期で、時代に逆行し自分の考える女性像とも違じ、「私自身がこの歌をに描かれてる女性だと思われる」と歌いたくないと抵抗されたそうです。
ただ、大人の人達に説得され、泣きながらスタジオに入り、大人達に屈してしまった自分が悔しくて収録集も泣いたそうです。
その為、「紅白歌合戦」出場は内心複雑だったそうです。
さらに、1975年に財津和夫さんが手掛けた「私は小鳥」がスマッシュヒットします。
そして、女優として、1975年に「トラック野郎・爆走一番星」で映画初出演やドラマ1974年の「真夜中のあいさつ」のマドンナ役、「青春ド真ん中!」など女優としても活動をされていました。
「青春ド真ん中!」は撮影後にみんなでロケ地近くのお店でご飯を食べるなど本当の学校みたいで楽しかったそうです。
若い頃のあべ静江さんはデビュー当時から自分の信念を曲げなかったそうです。
「芸能人水泳大会」に出ても、水着で歌うのが理解できず、絶対にビキニは着なかったそうです。
さらに、事務所にお願いして、セクシーに見えるグラビアも断ってたそうです。
歌手をメインに活動をされてた時の2、3年程は、車の中で寝るなど壮絶なスケジュールで、体調を記憶にないぐらいたくさん崩し、デビュー時に48㎏の体重が35㎏に落ちた事もあるそうです。
さらに、デビューして最初に言われた事は「しゃべるな」と言われ、「どうしよう」と思い不本意だったそうですが、あまり疲れてたので、しゃべらない方が楽さを感じ、しゃべらなかったそうです。
-あの頃は今と違って、すさまじいスケジュールでしたよね?-
「そうなんですよ。移動時間が休む時間だったり、食事の時間だったから。すごく気持ちの良さそうなお布団が敷かれていたのに、そこでシャワーだけ浴びて出て行かなくちゃいけなかったとき、ものすごく後ろ髪をひかれたの。今でも絵に描けるほど覚えている(笑)。『ああ、横になりたい』と思った…。唯一寝られたのが車のなか。鏡もコンセントもカーテンも付いていたし、まるで車のなかに住んでいるみたいな感じでしたね(笑)」-そういう生活はどのくらい続いたんですか-
「2、3年じゃないかな。たまたまドラマのほうに行ったり、舞台に行ったりしていたので、少し緩和されていったという感じ。歌だけだったら、ずっと続いていたかもしれないですね」-倒れたり、体調を崩したりということは?-
「ありました。記憶にないぐらいいっぱいありました。みるみる痩せていきましたからね。48kgでデビューしたのに、あっという間に43㎏、41㎏になって、40㎏割って、自分でこれは危険だなと思ったのが35㎏」
デビューして最初に言われことは『しゃべるな』ということだったのね。私はおしゃべりの仕事をしていたのに、しゃべるなって言われて、もうどうしようって思ったの。不本意だったし、どうしたら良いんだろうと思ったんだけど、あまりに疲れているので、しゃべらないことの楽さを今度は覚えちゃったの。しゃべらないで良いということは、別に考えなくても良いわけじゃない? だったら楽かもって…。だから私、静かな人だと思われていたんだと思う。しばらくの間は(笑)」
引用:https://search.yahoo.co.jp/amp/s/post.tv-asahi.co.jp/post-44720/amp
以上が、あべ静江さんの若い時(若い頃・昔)に関する記事ですね。